サーカス公演の後リトアルドが宿舎に戻ったのは、夕五つ鐘間近の時刻だった。宿舎事務員には「アズナと一緒に買い物と食事」と言った
が、こんな時刻まで宿舎の外にいたのは初めてだった。アズナはまだ、カリスと一緒にいるのだろうか。



「遅かったね、サフィーユさん」



初老の事務員・コータが、宿舎の出入り口に立ったリトアルドを見て言った。



「ごめんなさい、コータさん。買い物に夢中になりました」

「いや、無事ならいいんだよ。サフィーユさんが怪我でもしたら、モール女史になんて言われるか」



モール女史とは、ネルト魔法学校において最高位の魔術師、マク=ピルスク(皓術師)の一人である女性のことで、リトアルドとアズナの
専属魔術指導者である。

ネルト魔法学校には、生徒二人につき魔術指導者一人という制度がある。生徒二人の魔力の高さを平均し、その平均値が高ければ高いほ
ど、高位の魔術指導者がついてくれる。リトアルドとアズナの平均値は、学校内で最高の値だ。



「あ! コータさん、ちょっとモール女史のところに行ってきます!!」



専属魔術指導者、つまりはモールのところに帰宿届を出さなければならないことを思い出し、リトアルドは戻ったばかりの宿舎を出、本校
に向かって走り出した。










「モール女史、まだ、本校にいるかな」



リトアルドの宿舎と本校は、六つの宿舎のなかで最も離れている。ほとんどの指導者は、夕五つ鐘になれば帰宅してしまうため、急がなけ
れば間に合わない。

   ゴーン ゴーン ゴーン ゴーン ゴーン

リトアルドの大急ぎの走りも虚しく、鐘が五回鳴る。



「うそぉ!」



一言叫んで、リトアルドはノームとシルフを喚んだ。止まっている時間が無いため、走りながら。



「ノーム、落ちてる石とかを全部砂に変えて! シルフは追い風を!」



リトアルドが言うや否や、ノームとシルフはそれを実行した。邪魔な石が無くなり、それに追い風も加わって、先ほどとは比べ物にならな
いほど速くなった。

間もなく、本校が見えてきた。本校の扉の前には、モール女史のほかに数名の指導者がいる。



「ノームはもう戻っていいよ! シルフは風を弱めつつ戻って!!」



ノームが《あるべき場所》に戻る。シルフも、言われたとおりに風を弱めた。



「モール女史、ちょっと待ってください!」



扉の前から動こうとするモールを、リトアルドは大声で呼んだ。モール女史が振り向く。



「あら、リトアルド」



モール女史が呟くと、周りの指導者が口々に話しだした。



「あれがリトアルド? あの、初めて卒業前にマク=アーキ(朱術師)になったうちの一人、リトアルド・サフィーユですか、モール女
史?」

「噂どおり、纏っている魔力の質が良い。自慢の教え子でしょうね、モール女史」



指導者達の間では良い評判だが、当人はそんなこと気にしていられない。なぜなら、



「シルフ、風止めてー!」



風を弱めろと命じたが、それでも充分強い追い風。このままでは、止まれずに突っ込んでしまう。

リトアルドに命に従って、シルフは急に風を止めた。よって、リトアルドはその反動の所為で転んでしまった。



「わっ!」

「……リトアルド、大丈夫かしら?」

「す、すみませんでした! 帰宿届け出すの忘れてて、大急ぎで走ったら五つ鐘鳴っちゃって…」



急いで起き上がったリトアルド。それを見て、モールの周りに立っていた指導者達がフッ、と笑った。それによって、リトアルドの顔が真
っ赤になった。



「なんともまぁ、面白い生徒ですね、モール女史。これなら、自慢の生徒だというのも頷けます」

「私の生徒にも見習ってほしいものですわ」



皆に言われ、モールは嬉しそうな顔になった。リトアルドは今にもバタリと倒れそうな様子。



「リトアルド・サフィーユ、帰宿を了解しました。あなたと一緒に外出届を出したアズナは、どうしました? 一緒に外出をしていたので
しょう?」

「もう少し買い物がしたいと言っていました。まだ街にいると思います」



モールに嘘を吐くのも初めてで、僅かながら罪悪感があった。けれどそれを、モールが気付いた様子は無かった。



「それなら良いです。宿舎に戻って構いませんよ」



リトアルドは一礼し、その場から立ち去った。後ろからは、指導者達の笑い声が聞こえていた。

大急ぎで走り(もちろんシルフとノームは喚ばないで)、宿舎に向かう。コータへの挨拶もそこそこに、リトアルドは部屋へと駆け込ん
だ。



「…恥ずかしかった……!」



リトアルドは顔を真っ赤にして、ドアに寄りかかった。指導者達にあんなに笑われてしまったのだ、これ以上の恥は無いだろう。



「もう寝よう。うん、もう寝るべきだ」



それを忘れようと、リトアルドは早々にベッドへ向かった。髪を結わいていた髪紐を解き、ベッドの横の台に置く。寝巻きに着替えて、す
ぐに布団にもぐり込む。疲れが溜まっていた所為か、すぐに眠りについてしまった。










翌日起きたのは、朝三つ鐘をわずかに過ぎた頃。夜が明け、太陽がまだ低い位置にある時刻だ。前日にピーズルに言われたことを思い出し
て、早めの時間に起きたのだった。



「今って初夏だっけ。それにしても寒すぎだよ……」



目を覚まそうとバルコニーに出たのだが、身を切るような寒さに体を震わせた。カーディガンを羽織ってはいるが、この寒さにはあまり効
き目がないようだ。

この国、レアル国には四季がある。けれど一年の平均気温は低く、夏でも汗で服が濡れるなどの気温にはならない。



「さて、そろそろ着替えようかな」



部屋へと戻り、カーテンを閉めて着替え始めた。昨日と一昨日のアズナの服に比べれば、充分地味な部類にあたる、動きやすく、あまり目
立たない服だ。



「こんなので公演なんて、無理だよなぁ」



解っていても、リトアルドはこの類の服しか持っていない。



「楽屋にいっぱい衣装あったから、それ借りられるか言ってみよう」



アズナを迎えに、リトアルドは部屋を出た。昨日と同じようにコータに「アズナと出かける」と言って、宿舎を後にする。

アズナのいる宿舎の前に立ち、周りを見てみる。太陽は、先ほどと比べて随分高い位置にある。まもなく朝四つ鐘だ。



「アズナ、さすがに帰ってきてるよね……?」



カリスと共にいれば、帰ってこずにキャンピングカーに泊まらせて貰うというのも、なんとなく予想ができる。



「リート!!」



予想は外れていたようだ。アズナは、部屋のバルコニーで手を振っていた。リトアルドも、安心して手を振りかえす。



「ちょっと待ってて。すぐ行く!」



ドタドタという音が聞こえ、間もなくアズナが宿舎から出てきた。格好も、また流行りの服とやらを着ている。紺色のジーンズと、僅かに
腹の出る薄い水色のシャツだ。



「おはよう、アズナ。昨日は楽しかった?」

「うん。カリス、すっごい面白いの!」



昨日のことを、楽しげに話すアズナ。こんな話をした、あんなものを買ったなど、小さな子供のように明るく話していた。一段落したとこ
ろで、二人は本校に向かって歩き出した。モールに外出届を出し、校門をくぐってサーカスのテントに向かった。










「おはよう、二人とも」

「おはようカリス!」



今日の出迎えも、カリスだ。アズナはいきなり、カリスに向かって突っ込んだ。



「おっと。今日もすごいね、アズナ。年の割にあんなにお酒飲んでたし……」



アズナが大急ぎでカリスの口を手で塞いだが、もう遅い。



「アズナ、お酒飲んでたの?」

「飲んじゃいけないのは解ってる! モール女史には黙ってて!」



18歳未満は飲酒を禁ず。この国の掟の一つだ。掟を破れば、良くて罰金、悪くて懲役、だ。この場合は罰金程度で済むだろうが、魔法学校
は退学させられるだろう。



「もちろん。でも、これからは飲んじゃダメだよ」

「絶対黙っててよ」

「カリス、私たちはまだ15歳です。お酒は勧めないでくださいね」



リトアルドはカリスに向かって言い、カリスは素直に謝った。



「違うの! あたしが勝手に飲んで…」

「いいんだよ。衣装に着替えておいで。楽屋にあるから、ローゼに着付けてもらって」



アズナの言葉を遮って言うカリス。しぶしぶアズナはそれに従った。



「ごめんね、ついつい勧めちゃってさ。すこし羨ましそうな眼で見られてたから」

「憧れるのも仕方ないんですけどね」

「そうなんだ。それで、モール女史っていうのは誰?」



話をそらされた気がする。そうリトアルドが感じたのは、言うまでも無い。



「学校の先生です。一応、私達は学生ですので」

「ふーん。じゃ、ネルトの生徒?」



ズバリ言われ、リトアルドは一瞬目を見開いた。けれど、すぐにそれをもとに戻す。



「……なぜそうだと?」

「モール女史っていうのは、マク=ピルスクである女性のことでしょ? 彼女はネルトで教師をしてるって聞いたし、魔術を使える女の子
はほとんどがネルトの生徒だからね」

「さすが。そのとおりですよ。でも、内緒にしててくださいね。でないと退学ですので」



唇に人差し指を乗せるリトアルドを見て、カリスは笑った。



「だいじょーぶ、だいじょーぶ! せっかくの華を手放すわけないじゃないか。そのために、本名だしてないんだから」

「あら、そういう気だったのね」

「げっ」



いつの間にか背後に立っていたローゼに、カリスは飛び上がった。「はやくあなたも支度なさい」と母親のように言われ、いそいそと楽屋
へ向かった。



「あなたもね、リトアルド。その地味な服じゃ、動きづらいでしょ。ちゃんと服は用意してあるわ」

「はい、ありがとうございます」



リトアルドも、アズナとカリスに続いて楽屋に入り、用意されていた衣装に着替えた。用意されていたのは、紅色の髪紐と、どこかの国の
民族衣装のような露出の多い青い服だった。露出が多いというより、胸の下から腹部までが露になっている。そしてスリットの入ったミニ
スカートのようなものに、膝上まであるブーツ。リトアルドの私服にはありえないものだ。

それらを急いで身に着け、髪を結った。そしてすぐに、団員全員でリハーサルを開始。それから昨日と同じ、夕一つ鐘に、公演が始まっ
た。

演目は昨日と同じだというのに、たくさんの人々が来ていた。その三分の一ほどが、昨日最前列で見ていた女性たちだった。席は違えど、
テントの中央で礼を述べるカリスをじっと見つめている。


 
「再び来て下さった方もいらっしゃるでしょう。団員一同、感謝いたします。それではご挨拶として、昨日から入団した、リートとアズに
登場してもらいましょう!」



ライトが動き、リトアルドとアズナの姿を照らした。二人は観客に向かって一礼。そして、アズナがシルフを喚んだ。それに合わせて、リ
トアルドが手に持っていた花びらを、上に放り上げた。シルフが風を舞わせて、その花びらを観客席へと飛ばす。子供達が、それを手にし
て喜んだ。



「リート、行くよ」

「うん。いつでもいいよ」



アズナの合図で、彼女はサラマンダーを、リトアルドはウンディーネを喚んだ。



「サラマンダー、シルフ、やっちゃえ!」

「ウンディーネ!」



サラマンダーの火の粉を、先ほど喚んだシルフが、上に巻き上げた。火の粉が大きくなり、一つ一つが大人の拳大の大きさになった。それ
を、鉄砲水のようなウンディーネの水が追いかけ、包み込んだ。ドプンという音をたてて、大の男一人がゆうに入れる大きさの水が、大き
く跳ねる。重力にしたがって、それが下に落ちてきた。アズナのシルフが、その水の固まりを、小さく切り刻んだ。



「ノーム!」



続いてリトアルドが、ノームを喚ぶ。地面にあった細かいガラスだけを取り出させ、落ちてくる小さな水の固まりに纏わせた。水がガラス
によってキラキラと光り、地面に落ちても、その水の固まりは割れることは無い。それをリトアルドは拾い上げ、頭上に掲げた。



「この固まりは、触っても危険はありません。欲しい方は?」



子供たちが「はーい!」と叫んで手を挙げた。おそらく、観客のほとんどの子供が手を挙げただろう。

それを見て、リトアルドは観客席の子供達に向かって投げた。パシッという軽快な音が、所々で聞こえる。続けて、アズナも固まりを投げ
た。

ある程度の子供に投げ終えたところで、丁度水の固まりも尽きた。リトアルドとアズナは、礼をして楽屋に戻った。

リトアルドだけは、カリスのもとに向かう。



「カリス、明日は朝から夕二つ鐘まで授業なんです。公演開始を、夕二つ鐘半刻からにしてもらえませんか?」

「ああ、はいはい、安心して。明日は公演休みだから。」

「はい、わかりました。ありがとうございます」



軽く礼をしてから、リトアルドは楽屋に戻った。すれ違って出てきたのは、桃色の軽い布でできた服に身を包んだローゼだ。



「すごかったわ、あの魔法」

「ありがとうございます。頑張ってくださいね」



一言ずつ言い合って、ローゼは表へ、リトアルドは楽屋へ入った。



「リート、カリスに何て言ってたの」



険しい顔で、アズナが尋ねてきた。纏っている魔力も、怒りや嫉妬などの感情を表している。



「…………明日から始業だから、開演を夕二つ鐘半刻からにしてくださいってお願いしてきただけ、だけど……」



アズナの気に障らぬよう、リトアルドは言った。



「……それならいいや。何でもない」

「うん……」



アズナはそのまま、楽屋の入り口から公演を見ていた。と言っても、ほとんどはカリスの方を見ているだけだったのだが。

公演はやはり、大好評だった。一つが終われば大拍手が巻き起こり、次に移れば大盛況だった。老若男女、全員がとても明るい顔で客席か
ら立ち上がる。

けれどカリスが、明日は公演は休みだと観客に告げると、皆一様にがっくりと肩を落とした。

観客が全員帰ったところで、団員達はテントの中央に集まった。



「今日はお疲れ様! さっき言ったとおり、明日は公演は休みだよ。観光するなりトレーニングするなり、好きに過ごしてね」



カリスが言った言葉で、ラフェルモが大喜びした。少しはこのレアル国を周ってみたいらしい。サーカスなどの巡業者にとって、その国で
のお土産などは、とても貴重なものなのだそうだ。



「リート、明日あたりにこの国案内してくれや」



ラフェルモにそう言われたが、明日は朝から授業があるので、明後日の夕三つ鐘半刻、授業が終わった後に案内するという約束をした。



「ほいじゃ、明日なー」



公演で疲れたのだろう、ラフェルモはキャンピングカーに戻ってしまった。



「お疲れ様、アズナ、リトアルド。明日は来なくても構わないから、好きにしてね。もちろん、トレーニングで来るのもいいからね」

「はい、お休みなさい、カリス」



今日もカリスと食事をする気でいるアズナを引っぱって、リトアルドは宿舎の方へ向かった。


























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