部屋の中央に設置された椅子に、青年が座っていた。二十を超えたかどうかすら怪しい年齢で、ブロンドの短い髪に、ブラウンの瞳、白い
肌。アメリカ人だった。

彼は何もせず、ただ椅子に座っているだけだった。もう二時間も前から、ずっと。

そこに、二人の男と一人の少女が入ってきた。長い飴色の髪とエメラルドグリーンの瞳を持った少女と、黒スーツにサングラスというエー
ジェントとやらのような格好の男達。異様な組み合わせに見えた。



〈イルマ、この男が例の人間だ。頼んだよ〉



部屋のどこかから男の声がした。黒スーツの二人は口を開いていないので、スピーカーから流されたものだろう。そしてまた、スピーカー
からは〈二人は部屋の外へ〉という言葉が聞こえた。それに従い、黒スーツは部屋を出た。部屋に残されたのは、少女と青年のみ。



「こんにちは、私はイルマ。魔を射るって書いて《射魔》。あなたは何て名前なの?」



 少女の言葉に、青年は何も応えない。目すら合わせようとしない。それでも少女は、名を尋ねた。



「ねぇ、あなたの名前を教えて? でないと、ずっと《あなた》って呼ぶことになっちゃう」

「うるせぇよ。黙ってろガキ」



ようやく口を開いたが、その口から出たのは人の名からはかけ離れているもの。少女はそれに、溜め息をついて見せた。



「外の世界の人はそんな言葉を使うんだ。私、本でしかそんな口調知らないや」

「黙れって言ってるだろ。いい加減にしろ」

「それはこっちの台詞。私は名前を教えてって言ってるの」

「黙れっ!」



青年が叫び、立ち上がった。少女が押し黙る。



「うるせぇんだよ!! 俺の名前なんざ知らなくてもいいことだろ! オイ、これから来る人間を殺せたら解放してやるってのは、嘘だっ
たのか? こんなガキを殺せって事じゃないだろうな!?」



青年はスピーカーに向かって叫んだ。



〈そうだよ。この子を殺せたなら、君を解放しよう。それが君にできるのならね〉



応えた声の主は、冷淡に言った。けれど、殺される側の少女・イルマは何の反応も示さない。



「それなら、ガキ。名前を教えてやるよ。俺はアロー・ファスト。速い矢って意味だ」

「かつてアメリカの植民地であったフランスの国語ではジュンヌ・ドゥ・ラ・フレシュ。リクト・ヴィレの言葉では、アロー・ファストは
折れた槍の意味になるけどね」



「リクト・ヴィレ」という言葉に、青年――アロー・ファストは動きを止めた。それからゆっくりと顔を上げる。その目は、怒りを表して
いた。

「何が、折れた槍だ。何が、リクト・ヴィレだ。リクト・ヴィレ民族なんて、もとはただの流浪の民族じゃねーか。そんな奴らが、植民地
に過ぎなかった日本の政府の奴なんかと繋がりやがって。ンな穢れた血、アメリカじゃ受け入れる奴なんていないさ。それで生まれた奴ら
が、特殊な能力を宿してるだと? そんなものに頼らなきゃ、リクト・ヴィレは生きていけないだけだろ。俺らアメリカ人は自分達の力で
生き残る。お前ら穢れた一族なんぞに――」



アローの言葉が止まる。目が見開かれ、汗が流れた。そしてその目が見ているのは、額の痣が淡く光り、怒りのオーラを発しているイルマ。



「私だけを馬鹿にするなら、許してあげても良かった。でも、父様やリクト・ヴィレの人たちを馬鹿にするのは、絶対に許せない。もう、
あなたは絶対に許さない。死んで」



死んで。その言葉が、アローの脳に直接響いた。体中の血が、骨が、細胞が、それに従えと命じていた。本来、体中の神経に命じるのは脳
であるはず。だが今回は、体の感覚がそう命じていた。それに従わなければならない。それに従えば全てが終わり、楽になれる、と。

 アローはそれに、従った。腰に差していた短刀を抜く。



「そのまま、死んで。そうすれば、あなたは神様のところへ行ける」



イルマが言った。アローの目はもう、光を宿していなかった。イルマの言葉が脳に直接響き、体中の感覚が反応し、無意識なのか、短刀を
首へ当てた。



「さよなら」



それを合図に、短刀を引く。アローの首から、鮮血が飛び散った。彼の体は、ただの噴水となる。ただ、赤い水を噴出すだけの、モノに。

イルマはそれを、ただ身に浴びていた。もう、こんなものは慣れている。ずっと前からイルマは、こうやって人を殺していた。もう、人を
殺すことに恐れは無かった。



〈お疲れ様、イルマ。さあ、シャワーを浴びておいで。それが終わったら、父様のところへおいで。ご褒美をあげよう〉

「うん、わかった父様」



イルマは、アローの肉体を残して、部屋を出た。入れ替わりに、黒スーツの二人組みが部屋に入る。二人とも、手にはビニル製の手袋が。
二人でアローの体を抱え、部屋から出した。

しばらくたってから、イルマはある部屋のドアをノックした。



「父様、入ってもいい?」



すぐに、是という返事が返ってくる。それを聞いてから、イルマは部屋に入った。その部屋は、まるで書斎のよう。壁という壁が本棚とな
り、その本棚はすべて、分厚い本や辞書などで埋められていた。今のままでは新しい本を買っても、本棚に入れることが出来ない。
そんな本棚の壁の間に、こぢんまりとした机があった。そこにも本が重ねられ、本を読むためのスペースが少ししかない。そこに、男が座
っていた。角丸のメガネをかけた、日本人特有の顔立ちの、四十前後の男。イルマが父と呼ぶ、坂之上 陸善(さかのうえ りくぜん)
だ。



「今日もよくやってくれたね。さあ、おいで」

「父様!」



陸善に手を広げられ、イルマはそこに飛び込んだ。



「父様、私、あの人のこと殺しちゃった……。いけないことだった?」



顔をそっと上げ、陸善の顔を見上げる。



「いや、いいんだよ。イルマは良い事をしたんだ。アロー・ファストは、スパイというものでね。この研究所、イルマのお家の情報をアメ
リカに伝えようとしていたんだ。それを阻むために、イルマにアロー・ファストの処理をお願いしたんだよ」

「よかった。ねえ父様、お話をして。あの、方舟のお話」

「いいよ。…昔、ずっと昔に、ノアという青年がいました―――」



陸善は話し始めた。イルマは目を瞑り、その話を静かに聞いていた。










イルマがアロー・ファストと話をしていたのと同時刻。全く別の場所で、一人の少年が本を読んでいた。

少年が本を読んでいるのは、広い部屋のドアの下にある、階段部分。五段ほどのその小さな階段は、少年にとっては、ほど良い高さの椅子
だった。
少年は、何にも気を取られること無く本を読みつづけていた。何も無い部屋の中に、本のページを捲る音だけが響く。

しばらく経ってから、少年が本を閉じた。もう読み終えたのだ。それを見計らったように、部屋のスピーカーから声が聞こえた。野太い、
熊のような感じの声だ。



〈おいトーカ。お前、またこんなとこで本なんて読んでたのか〉

「別にいいだろ。そんぐらいは自由にさせろ」

〈……これから一人の男が入る。アメリカのスパイだそうだ。お前はそれの相手をしていろ〉

「りょーかい」



少年・トーカは、文庫本を階段の一番上に置く。すぐに部屋の反対側のドアが開き、黒髪に銀灰色の瞳のアメリカ人青年が入ってくる。後
ろには厳つい男が立っており、どちらかというと、青年は無理矢理連れてこられた感じだ。



「トーカ、闘(や)れ」

「まかせとけ」



厳つい男の言葉に応え、トーカは青年の方に向き直った。男はすぐに、部屋から出て行く。しばしの間、沈黙が続いた。

我慢できなくなって、トーカは青年に声をかけた。



「よお。お前、アメリカのスパイなんだってな? もうとっくに、アメリカは抵抗をやめたんだと思ってたが、お前はしつこいんだな。さ
っさと降服しちまいなよ。そっちの方が楽だぜ? アメリカなんて、リクト・ヴィレの血を引く俺たちにとっては、ただの雑魚でしかない
んだ」



青年は応えようとしない。ずっと押し黙っている。



「あのなあ、この沈黙をどーにかしようと話し掛けてるんだぜ? なのにずっと黙っててよ、つまんねーじゃねーか。一応、さっきの
オッサンには闘えって言われてる。殺せ、とまでは言われてない。ってことは、お前を生かしておいても良いってことなんだぞ? それ
に、お前の行動次第で、俺はお前を殺さなくちゃいけない。もし俺を攻撃したらお前は俺に殺されることになる。何もしないで話をしたな
ら、生かしておいても平気だろ。どうする?」



トーカの話を聞き、青年は行動を開始した。袖に隠していたのか、ナイフを手に、トーカに切りかかってきたのだ。トーカは後ろに跳び、
それを避けた。



「殺されても良いってことだな。遺言があるなら聞いておくぞ?」

「お前のような子供に負ける俺ではない! それともう一つ! アメリカは、誇り高き国だ。流浪民族リクト・ヴィレなどに負けることな
ど、ありえる訳がなかろう!!」

「それが遺言ね。憶えておくよ」



もう一度跳び、文庫本を置いた階段の右側に降り立った。それから、ガタン、と壁を叩く。すると、叩いた場所のすぐ側が開いた。そこ
は、小さな隠し扉がある場所だった。

隠し扉の中には、ナイフから青龍刀、拳銃やサブマシンガンが収納されていた。トーカはその中から、日本刀を取り出した。六花(りっか
)の形をした鍔に白い柄、滑らかな刃紋。トーカの愛用する刀、静嵐(せいらん)だ。

トーカはすぐに、静嵐を両手で持ち、構えた。青年は一瞬躊躇し止まりかけたが、すぐにその躊躇を打ち消してトーカに向かってきた。



「おいおい、刀にナイフで勝てると思うのか? 刀自体、銃の弾をも弾くんだ。ましてや、この静嵐は、日本刀の歴史の中で最高の出来だ
と言われてる。お前、絶対死ぬぞ」

「二度も言わせるな。俺はお前には負けない!」



青年は他にもナイフを隠し持っていた。両手の指の間にそれらを挟み、トーカに投げつける。トーカはそれを、静嵐で弾いた。しかし青年
も、それは予測していたようで、すぐにトーカに向かっていく。



「ナイフと刀の押し合い、ね。おもしろいじゃねーか!」



トーカはそれを、静嵐で受けた。ギリギリと、刃が押し合う音が聞こえる。



「そうそう。お前の名前を教えろよ。遺言憶えてても、そいつの名前を知らなきゃ意味無いじゃんか」

「お前に名乗る名は無い!」



一気に、青年のナイフを押す力が増した。トーカは、一度ナイフを流した。



「ほぉ、結構強ぇじゃねーの。それなら、こっちも本気出していいよな?」



言うのと同時に、トーカの体が光った。否、トーカの体に刻まれた、文様が光っているのだ。



「俺の能力、知らねーよな。俺の能力はな、体中の筋肉を自在に扱えるってもんなんだ。それだけ聞くとショボい能力だが、武器を持てば
最強になる。ほんの少し力を入れただけで、相手の体を切り刻むことができるんだ。お前、もう降参してくれよ。俺、お前が気に入った。
殺したくないんだ」

「誰が、降参などするか。父の仇、討たせてもらう!」



青年が、ナイフを振り上げた。軽く身を捻ってそれを避ける。すぐに静嵐を青年の横腹の辺りに当て、引いた。横腹の皮膚が裂け、血が飛
び散る。



「が、ふ……っ」



青年が血を吐いた。横に倒れる。バタン、という音がして、青年が喋り始めた。これは、トーカに向かって言っているのだろうか。



「ごめん、親父…仇、討てなかっ………俺は、アレン・ミハエルは、親父の役に、立つこと…でき……た、か…………」



それっきり、青年は何も言わなくなった。トーカが口元に手をかざしてみれば、手には風が当たらない。もう、彼は息をしていなかった。
目を閉じ、穏やかな顔で死に絶えた。



「故ジャック・ミハエル大統領の息子、か。仇討ちのために、ここまで生きてきた、と。道理で、威厳ある口調だったワケだ」



静嵐の刃についた血脂を拭き、鞘に収めた。そして後ろ向きになったまま、すでに死に絶えているアレン・ミハエルに言った。



「もう聞こえちゃいねーだろうが、俺の名は、トーカ。神を討つ、と書いて《討神》だ」



静嵐を持ったまま、トーカは部屋を出た。部屋には、アレン・ミハエルの死体だけが残された――










「―――こうして、ノアと動物たちは助かったのでした」



陸善の話が終わった時、イルマはすやすやと寝息を立てて眠っていた。その姿は、ただの幼き少女のもの。先に人を殺したとは、到底考え
られない。

陸善はイルマの体を抱きかかえ、書斎を出て、イルマに与えた部屋に向かった。書斎の扉が、ゆっくりと閉まっていく。机の上の開かれた
本が、風も無いはずなのに勝手に閉じる。それが見えたと思えば、すぐに扉が完全に閉まった。書斎の周りは、何も聞こえなくなった。










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