早朝。トーカに、空良からの召集がかかった。トーカは早々に、空良の部屋に向かった。服装も、空良に言われたとおり暖かいものを選ん
で着てきた。黒のトレーナーと紺のジーパンだ。この研究所の中にいると、ものすごく暑い。



「ふあぁー。こんな朝早くからなんだよ、空良」



欠伸をするトーカ。それを見て、空良が微笑む。



「悪いけど、お使いに行ってきてくれないかい?」

「お使いィ?」

「そう、お使い。この研究所を出て、川を渡ったところにある研究所にね。そこに、こっちの研究データを届けて欲しいんだ」

「外に出られるのか!!?」



トーカが笑顔で叫ぶ。それは当たり前だ。トーカは一度も外へ出たことが無いのだから。今までずっと、空良が外に出ることを禁じていた
のだ。



「もちろん。だけど、付き添いもいるからね」

「付き添い? 誰だ?」

「俺だよ」



今まで陰になって見えなかったところから、ウィルが出てきた。昨日のようなタンクトップではなく、ハイネックの長い袖のシャツを着て
いる。ズボンも、やはり長めのもの。



「トーカ一人でなんて行かせられないよ」



そう言う空良の目は「父親」のもの。昨日のような幼さも、ここでは垣間見ることは出来ない。



「だから、ウィルに付いていってもらう。それでもいいね、トーカ?」

「……わかった。それなら、早く行こうぜ、ウィル!」



一瞬だけ暗い顔をしたが、それもすぐに消えた。それから、走って部屋を飛び出していく。ドタドタと廊下を走る音が、未だに聞こえてい
る。



「あいつ、これから何があるか知らないんだよな?」

「言えないよ、あんなこと。けど、多分だけど、今日は流石に無いと思うんだ。僕も、そんなこと、あってほしくない。今日は、あっちの
子には会わせないようにしておいてくれるかい? 兄さんには悪いけど僕には、あっちの子にもトーカにも、あんなことはして欲しくな
い」

「まかせておけ」

「それじゃ、これが研究データ。トーカの情報が入ってる。間違っても、トーカにだけは見せないでね」



空良はそう言って、一枚のディスクを差し出した。ウィルはそれを受け取って、ズボンのポケットに入れた。



「ああ」



ウィルが頷き、トーカの後を追った。部屋に残った空良は、モニターの方を向き、走っていくトーカとウィルの姿をずっと見ていた。










トーカの家、つまり、この研究所。そこの地下には水路があった。水路は、研究所の近くに流れている川と繋がっており、アメリカのスパ
イ(アレン・ミハエルがその例だ)は、ここからこの研究所に連れてこられる。トーカとウィルは、今まさにその水路にいた。

ボートに乗ったトーカは、いやにソワソワしていた。それを不思議に思い、ウィルは言った。



「どうした、トーカ? やっぱり、親のもとをはなれるのが寂しいか? 大丈夫だよ。研究所は、川下にある。川下なら、日帰りで戻って
来れるからよ」

「別に、いつここに帰って来れるかなんて気にしちゃいない。そんなのどうでもいい」



嬉しそうな、楽しそうな顔で言うトーカ。確かにその顔は、いつここに帰って来れるかなどということは、気にしているようなものではな
い。



「今日俺は、初めて外に出られるんだ。今まで本でしか、外の世界を知ることが出来なかったんだ。初めて、外の景色を見れる。今日は俺
にとって、忘れられない日になると思う」



トーカの声は、今にもプレゼントを開けようとする幼子のものと同じだった。その中身がどんなものであろうと構わない。ただそれの中身
が気になるだけ。そういうものだった。

ウィルはそれに観念し、ポツリと言った。



「……今の季節は冬。この辺りは結構寒いぞ。さて、ここで問題だ。二つの情報を元にして、外は今どんな状態だと考えられる?」

「…雪か! 雪が降ってるんだな!?」



一瞬の間があってから叫んだ。それと同時にボートが揺れ、トーカがふらつく。ウィルはボートを漕いでいるため、ふらつかなくて済ん
だ。



「馬鹿トーカ! 揺らすんじゃねえ!」

「ウィル、早くしろ!」



そしてようやく、出口の光が見えてきた。トーカが身を乗り出す。



「トーカ、落ちたら拾わないでそのまま行くからな」

「この辺りは雪が積もるか? 雪って、さらさらしてるのか?」



ウィルの言葉を無視して、トーカは疑問を投げかけてきた。



「外に出たときが一番凄いぞ。覚悟しとけ」



仕返しとばかりに、ウィルもそれを無視する。そしてボートが、水路から出た。



「!!」



トーカの目が見開かれる。けれど、その視界には光しか映らない。何度か瞬きをして、ようやく景色が見えた。

辺り一面、全てが銀色だった。枯れた枝も、銀色に光っている。



「雪景色ってやつさ」

「これが、雪……これが、外………」



歓びの所為か、言葉が出てこない。ただ驚いて、ただ、嬉しかった。初めて見た外の景色が、雪景色でよかった。



「ウィル!」

「わかってる。遊びたいんだろ?」

「遊ぶんじゃねーよっ。そうじゃなくて………」

「あっちの研究所長と話している間は暇になるだろうから、そのときだ」

「絶対だぞっ!」



そう言っては見るものの、やはり雪には興味が引かれる。トーカは無理矢理首を捻って、視界から雪を消そうとした。

まもなく、川下の研究所に辿り着いた。空良から連絡はあったらしく、研究所の入り口には二名の研究員らしき人間がいた。男女の研究員
だ。



「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」



男の方の研究員が声をかけ、研究所の中へと入っていく。女の方も、それに続いて歩き出した。そのときだ。



「…………」



もしかしたら、気のせいかもしれない。女が、トーカを睨みつけてきた。目を細め、こちらをじっと見ている。

だが、それもすぐに元に戻され、視線は前を歩く男の背中に向けられた。



「(なんだ、あの女…)」



トーカの女を睨む視線を感じたのか、ウィルが振り向いた。



「どうした」

「いや、何でもない」



自分に目を向けるのも仕方ないのかもしれないと思い、そのまま二人についていった。










研究員二人に案内されたのは、空良の部屋に似た場所。ただ、部屋のモニターが少し小さいというところだけが違う。



「君がトーカくんか」



椅子に座った男が、椅子を回転させて振り返る。これまた空良に似ている。



「はじめまして、僕は坂之上陸善。坂之上空良の兄だよ」

「お久しぶりです、陸善さん」



陸善が名乗り、ウィルがお辞儀をした。それに習い、トーカも礼をする。



「空良から連絡は来ているよ。わざわざ研究データを持ってきてくれたんだろう。悪いね」

「いえ。これが、その研究データです」



空良から預かったディスクを渡す。陸善はそれを手にして、しばらく眺めていたが、すぐにこう言った。



「今すぐ、これを見せてもらってもいいかい?」



ウィルはその言葉に「もちろん」と返す。



「ウィル、俺はどうしてればいい? 外出てていいか?」



トーカはウィルの服の裾を引っ張って問う。



「いいぞ。雪だるまでも作ってな」

「ゆきだるまって、何だ?」

「とにかく、お前は外にいるんだ。いいな」



ウィルの言葉に、僅かに恐怖が混じっている。トーカはそれを感じ取り「わかった」と答えてから走り出した。



「なぜ、トーカを追い払うんだい? いてくれた方が、こちらとしても楽しいんだが」

「あいつはまだ幼いんです。自分のことは、しばらく知る必要は無いでしょう」

「そうはいかない。そろそろ、あの"計画"を実行するんだ。自分のことを知ってからでないと、研究データをとる意味がなくなってしま
う」



とても楽しそうに言う陸善。ウィルは拳を握り締め、殴りかかりたくなるのを堪えていた。



「それでは、見せていただこうか」



陸善は、モニターにディスクをセットした。モニターが光り、真っ暗だった部屋が僅かに明るくなった。










「すげー! 雪ってこんなのだったのか!!」



外に出たトーカが最初にしたのは、降り積もった雪の山に飛び込むことだった。露出している部分が、ひんやりと冷たくなる。すぐに仰向
けになった。



「冷たい。でも、楽しいや」



手元にあった雪を掴み、顔の前で握った手を開いた。固まった雪が顔に降ってくる。はたから見ればただのバカだが、トーカにとってはそ
れも楽しめる遊びだ。



「こんなに楽しい世界なら、空良のやつ、外で遊ぶの許可してくれればいいのに」



なんとなく、首だけを動かして左を向いてみる。左側には、先ほどまでいた研究所が見える。研究所の屋上は、やはり雪に覆われていた。

今度は右を向く。そちらにはトーカたちが乗ってきたボートと、川があった。そして、もう一つ。



「あれ、誰だ?」



雪で遊ぶ人影があった。飴色の髪がひらひらと舞っている。体つきから言って、おそらくトーカと同じくらいの年の少女だろう。



「この辺りに、子供なんていたんだ」



少女が、雪を真上に投げながら遊んでいる。見ているこちらも楽しくなってきた。くるくると回るのその姿は、昔話に出てくる天女のよ
う。そして僅かに、少女の顔が垣間見えた。



「―――ッ!」



トーカは目を見開く。少女の顔は、トーカのそれとそっくりだった。もちろん、あちらは少女でこちらは少年。男女の差で顔立ちは違いが
ある。トーカの髪の色は、飴色ではなく薄い赤。瞳の色もエメラルドグリーンなどではなく、濁った青。その辺りは全く違う。けれど少女
とトーカは、まるでどちらかの生き写しであるかのようだ。

少女の、前髪の間からのぞいた額の四葉のアザは、リクト・ヴィレと日本人の間に生まれた、混血児が持つ特有のもの。トーカの文様と同
じ部類だ。



「お前……」



トーカは呟いた。










「え?」



イルマは振り向いた。今、どこかから声が聞こえたような気がしたのだが。



「気のせい、なのかなー」



振り向いた先には、誰もいない。イルマは「風の音だった」という結論に達した。



「やっぱ、雪って気持ちいい」



降り積もった雪山に、イルマは飛び込んだ。体温で融けた雪が、服に染み込む。



「つっめたぁい!」



そうは言うが、その声色は楽しげだ。



「あと、どれくらいで夏になるんだろ。そうなったら、ここは緑の草原になるんだよねー」



この辺りには、季節は夏と冬しかない。アメリカ政府の行った、鉱物だの石油だのの発掘で、この辺りの自然はほとんど壊れてしまった。
今残っている自然も、進化と退化を繰り返してようやく、適応力を身につけたものたちだ。すでに、桜などは絶えてしまった。



「図鑑で見た、紅葉っていう木が見てみたいな。あと桜っていうのも。写真じゃなくて、本当に」



仰向けになり、そう呟く。



「父様に言ってみようかな。紅葉が見たいって」



言ってから、自分の言った言葉に「あ」と間抜けな声をあげた。



「そろそろ戻らなきゃ! 父様、怒ってるかも」



立ち上がり、服に付いている雪をはらった。そして、ぼすっ、という音を立てながら研究所に戻った。










「なんで俺、隠れてるんだ……?」



少女が振り向く瞬間、トーカは大急ぎで近くの木の後ろに隠れていた。自分でもその行動の意味が解っていない。



「て、あいつも研究所の子供なのかよ」



少女が研究所に戻ったのを見て呟いた。



「まあいいや。もう暫くしたら、ウィルのトコ戻ろ」



木の後ろから出たトーカは、再び雪遊びを始めた。けれどその間中、あの少女のことが頭から離れることはなかった。










イルマが一目散に向かう先は、やはり陸善の部屋。



「父様!」



バタンと扉を開けた。



「あれ、あなた誰?」



扉の取っ手に手をかけたまま、陸善の前に立っているウィルに問い掛けた。



「前に話した、父様の弟の助手さんだよ。イルマは部屋にいなさい。話が終わったら呼ぶから」

「はーい」



返事をしてから、すぐに扉を閉めた。パタパタと廊下を走る音が聞こえたが、しばらくしてそれも聞こえなくなった。



「あれが、こちらのイルマだよ。あの様子だと、トーカには会っていないようだ」

「もしかして、会わせるように仕向けていたのですか」

「もちろん。空良のことだから、できるだけ会わないようにしているだろうと思ってね」

「…………」



ウィルはこの男が大嫌いだ。自分の筋書き通りにことを運ばせ、それを見て喜ぶ男。筋書き通りにいかなくてもすぐに別の筋書きに書き換
えて楽しむ。トーカもイルマもウィルも、この男の玩具でしかないのだ。自分のことを知らない少女が、自分のことを「父親」として見て
いるのを知っていて、ただ自分のために利用している。



「まあ、この展開も予想はしていたから、大した打撃ではないがね」



陸善は高らかに笑った。この笑いが、腹が立つ一番の理由だ。


 
「さて、このディスクはどうしようか。返しておくかい?」

「いただきます」



手を出し、ウィルはディスクを受け取った。それを見計らったかのように、部屋にトーカが戻ってきた。



「お、丁度いいところに帰ってきたみたいだな」



トーカは呑気に言った。けれどその心の中は、先ほどの少女がどういう者なのかという疑問に埋め尽くされていた。もちろん、そんなこと
を顔に出すトーカではない。

対してウィルは、今にも怒りを爆発させようとしている風だった。それと共に、やはり恐怖の色も浮かんでいる。



「話終わったんなら帰ろうぜ。面白そうな場所見つけたんだ!」



怒りが爆発しないうちに帰ろうと思い、トーカは突発的に嘘をついた。



「そ、そうだな。それでは陸善さん、失礼します」



到着した時のように礼をすることなく、ウィルはトーカをおいて部屋を出た。次いでトーカも部屋を出る。



「まったく、わかりやすい思考だね、あの子供は。イルマとは大違いだ。やはり、トーカを空良にまかせておいて良かった」



独り言。やはり、陸善はトーカたちの行動を楽しんでいた。










研究所から出ても見送りはなく、トーカとウィルはすぐにボートに乗り込んだ。



「ウィル、何かあったのか?」

「何でもない。で、面白そうな場所ってのはどこだ?」

「あれ嘘。お前が不機嫌そうだったから」

「…礼を言う」



顔を合わせず、ウィルは言った。トーカは「おう」と返す。



「じゃあ、帰ろうか。俺たちの家に」

「そうだな」



そして二人は「自宅」に着いた。









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